ツェッペリン伯号の偉業

1929年にドイツの巨大飛行船『グラーフ・ツェッペリン(LZ127)号』が達成した飛行船による世界一周とは、どのようなものだったのか。世界に、そして日本に、どんな影響を与えたのか。
その偉業を振り返ってみよう。

世界一周への偉大な挑戦

グラーフ・ツェッペリン(ツェッペリン伯号)の世界一周への挑戦は、アメリカの新聞王、ランドルフ・ハーストの全面的バックアップによって実現したものだ。
このため、冒険のスタート地点はツェッペリン伯号の生まれ故郷フリードリヒスハーフェンではなく、スポンサーであるハースト氏の要望に沿ってアメリカ・ニュージャージー州のレイクハーストとなった。ドイツから一度ニューヨークに飛び、さらにレイクハースト移動し、そこから世界一周を始めたのである。隊長は飛行船の開発者でもあるエッケナー博士。、各国のジャーナリスト(ドイツからは日本の新聞記者2名も同乗)や代表者も乗り込み、1929年8月7日の真夜中近くに離陸。
こうして、航空史に残る偉大な旅が始まったのである。

アメリカからドイツ、そして日本へ

最初の寄港地は故郷であるドイツ・フリードリヒスハーフェン。ここで燃料や食料を補給し、次の寄港地・日本を目指すのである。
世紀の大冒険とはいえ、ツェッペリン伯号は「空飛ぶ豪華客船」である。当然、食事も高級レストラン並み。このため、お酒だけでもワイン60本、リキュール10本、ソーダ150リットル、氷が600キロも積み込まれたという。
こうして万全を整えたツェッペリン伯号は、8月15日未明、日本を目指してフリードリヒスハーフェンを飛び立ったのである。

空飛ぶ豪華飛行船

乗組員を除いたツェッペリン伯号の乗客は20名。同船は空の客船がコンセプトであるため、その旅はとても優雅なものだったという。豪華な食堂、広い展望ラウンジ。客室は全て個室で、シャワー、トイレも完備。ただし、当時の飛行船は水素ガスを使用していたため火気厳禁であり、禁煙。今では多くの飛行機でも禁煙が標準となっているが、愛煙家が多かった時代においては厳しいルールだったようだ(現在の飛行船は燃えないヘリウムガスを使用している)。

それでも、豪華飛行船での空の旅は、とても快適なものだった。
フリードリヒスハーフェンを発った翌16日にはウラル山脈を越え、初めてアジアの空へと進んだ。どこまでも続く続く大河とシベリアの凍土地帯。もしも不時着ということになれば大変な事態となる。だが、そんな不安は、美しいオーロラやシベリアの大自然がかき消したことだろう。
筆者もツェッペリンNTでの遊覧飛行を数回体験したが、ゆっくりとした速度、地上の様々なものを見渡すことができる高度での遊覧は、まさに心奪われる光景だった。ツェッペリン伯号の高度は地上では200メートル、海上で600メートルだったというから、乗客たちは眼下の街並みや自然のパノラマを十分に堪能できたことだろう。
こうして順調な飛行を続けたツェッペリン伯号は、予定通り8月19日の夕方に、日本……土浦上空へと飛来したのである。アメリカ・レイクハーストから4日、フリードリヒスハーフェンから3日目のことだ。

君はツェッペリンを見たか?

ツェッペリン伯号はいったん土浦を通り過ぎ、東京を回ってから戻ってきて、霞ヶ浦湖畔の格納庫に着陸した。
1929年(昭和4年)当時の帝都東京は、関東大震災から6年が経過し、復興と近代化に向けて急速に変わりつつある時期だった。華やかなモダニズム、エロ・グロ・ナンセンスなカストリ雑誌、モボ・モガやインテリ青年たち。浅草にはレビュー劇場が、銀座にはお洒落なカフェが出来、蓄音機からジャズが流れる一方、昭和2年の金融恐慌で街には失業者もあふれていた。
そうした日本に、ツェッペリン伯号はやってきたのである。その偉容はまさにモダン。当時の人々は熱狂的に歓迎した。
「君はツェッペリンを見たか?」が流行語となり、「鯛焼き」は「ツェッペリン焼き」になり、女性たちは飛行船をかたどった髪型「ツェッペリン巻き」になったという。連日の新聞もツェッペリン一色となり、まさに一大センセーションだったのだ。

日本、土浦、霞月楼での5日間

ツェッペリン伯号が日本の霞ヶ浦を目指したのは、そこに第一次世界大戦の賠償としてドイツから移設された飛行船用大格納庫があったからだ。世界一周の行程で、飛行船を十分に整備・点検できる唯一の場所が、霞ヶ浦だったのである。
ツェッペリン伯号が着陸し、格納庫に収納されたのち、乗員・乗客は足掛け5日間、日本に滞在した。到着直後の歓迎の席は土浦の料亭「霞月楼」で行われ、このとき堀越常二少年(当時7歳)は、顔なじみの将校に誘われ、格納庫内のツェッペリン伯号に招待されるのである。
なお、エッケナー博士は霞月楼に招かれた際、日本式に靴を脱ぐように言われてもドイツの風習ではないとして靴を脱ぐことを拒否したそうだが、実はそれは口実であり本当は靴下に大きな穴が開いていたからだったらしい。

太平洋を横断してロサンゼルスへ

8月19日から5日目、日本に滞在したツェッペリン伯号は、8月23日午後2時に、再び飛び立った。
次の目的地はアメリカ・ロサンゼルス。東京上空をデモンストレーション飛行した後、日本の海岸線を東北に進み、千島列島、アリューシャン列島に沿って飛び、アラスカ上空を経由してバンクーバーから東海岸沿いにロサンゼルスを目指す。よく見る平面の世界地図(メルカトル図法)では、太平洋をまっすぐ横断したほうが近いように見えるが、実際には地球は丸いので、ツェッペリン伯号のコースが本当の最短コースなのである(太平洋の中央を横断するのは低気圧などの危険もある)。
こうしてツェッペリン伯号は、8月25日にサンフランシスコ上空に到達。ここで太平洋横断成功の祝杯を上げ、同日、ロスアンゼルスのマインスフィールド基地に着陸、係留された。霞ヶ浦を飛び立って79時間目(3日と7時間)のことであった。

世界一周を達成した21日間の旅

その後、ツェッペリン伯号はニューヨークへ向かい、1929年8月29日、午前7時、出発地であるレイクハーストに帰還。
総飛行時間288時間11分、飛行距離3万2790キロメートル、総日数21日7時間33分。ついにツェッペリン伯号は世界一周の偉業を達成したのである。

世界一周のクルーズは、現在でも大型旅客船などで行われているが、約3ヶ月ほどの行程となる。それに対して飛行船は、わずか3週間。
こうした夢のあるクルーズが、いつか再び再現できる日が来るかもしれない。少なくとも「飛行船のまち・土浦」としては、その日を信じ続けたいと思う。