飛行船に乗った少年/堀越恒二氏インタビュー

このインタビューは、「飛行船のまちづくり」を推進する土浦市商工会議所が、堀越恒二氏の記憶を今後に残すために、土浦ツェッペリン倶楽部、土浦ツェッペリン協議会の協力のもと行ったものです。(2007年6月4日収録)

■堀越 恒二 氏(茨城県土浦市)
1929年(昭和4年)8月19日。茨城県・霞ヶ浦に巨大飛行船「ツェッペリン伯号」が舞い降りました。「君はツェッペリンを見たか」が流行語になり、日本中が沸いたと言います。
そのツェッペリン伯号の内部を実際に見た人が、茨城県土浦市の料亭・霞月楼の「堀越恒二氏(収録時、料亭・霞月楼会長)」です。
恒二氏は当時、小学二年生。将校や士官の宴席によく使われていた料亭の子であったため、気のいい士官に招待され、誰も近づけないはずの「ツェッペリン伯号」に乗せてもらったのでした。非公式な出来事のため、記録には全く残っていないはずでしたが、そのとき船内でドイツ人写真技師に写真を撮られたそうで、その写真は、ツェッペリン伯のお孫さんであるイーザ・フォン・ブランデンシュタイン婦人が所有しているそうです。

お店の番頭さんが引くリアカーに乗って出掛けた海軍基地で、恒二少年は何を見て、何を体験したのでしょう。
以下インタビューは、その堀越恒二氏の体験を伺った歴史的にも貴重な記録です。

堀越恒二氏は、2008年5月19日、肺炎のためご逝去されました(享年87歳)。
心よりご冥福をお祈りいたします。

おぉ、坊主いたか。ツェッペリン飛行船に乗りたいか?

日本中が大騒ぎになった巨大飛行船・ツェッペリン伯号の来日。それは、同飛行船の世界一周飛行の途中だった。8月15日未明、ドイツ・フリードリヒスハーフェンを飛び立ったツェッペリン伯号は、シベリアを飛び越え、日本の東京までの1万1千キロを4日間・99時間40分で飛んだのだった。
霞月楼会長・堀越恒二さんは、当時7歳。少年は、ひよんなことからツェッペリン伯号に乗船できる幸運に恵まれるのだ。


日本人は入っちゃいけないしきたりだったんです。
それなのに、着陸の翌日、なぜ華月の坊主が入れたのかと言うと、ウチ(霞月楼)の菊の間で、ツェッペリン号来日の歓迎会をやっていたんですね。で、そのとき、夜9時でしたね。士官連中が25〜26人集まっていたところに、私が覗きに行ったんです。小学校の二年生、満で7〜8歳の頃ですね。
そしたら、顔見知りの副官がトイレか何か出てきて、私が敬礼したんです。子供心にそういうことを覚えてたんですね。
すると副官は「おぉ、坊主いたか。ツェッペリン飛行船に乗りたいか?」って言うから、私もハッキリと「乗る!」と答えたんです。「んじゃあ、明日の12時ピッタリに、あの格納庫の脇に来とれ」と言われて。
それで、翌日の12時に、うちの板前がリヤカーに乗せて連れていってくれた。
阿見を通っていったんですが、今では、どうやって航空隊の格納庫にまで入っていったか、その入った場所が全然わからないんです。格納庫と筑波山の関係を調べて、ここいらかなって、自衛隊の室長と一緒に探したりもしたのですが、分からなかった。
とにかく、リヤカーを押して格納庫に行ったら、夕べの副官が出てきて「おーい坊主、こっちだこっちだ」って呼んでくれたので、私は呼ばれるままに飛行船の所に行ったわけです。
リヤカーを押してきてくれた板前も一緒だったので「おにいちゃんも入れてやってくれ」と言ったんですが、「普通の服装ならまだいいけど、作業の板前の服着てんだから駄目だ」と断れたのをよく覚えてます。


飛行船の格納庫は、第一次世界大戦の賠償として、ドイツから接収・移築されたものだった。その場所は、士官たちに利用される老舗料亭「霞月楼」から数キロ先。その巨大格納庫に、板前の押すリヤカーで、ガタガタ揺られながら出かける。自分の家の上を通過していった巨大な姿を目撃した恒二少年は、どんな気持ちだったのだろう。ワクワクする7歳の顔が目に見えるようだ。

インタビューは土浦市商工会議所主催で霞月楼の一室で行われました。会場には撮影クルー・インタビュアーの他、土浦商工会議所関係者、土浦ツェッペリン倶楽部の面々などが集まりました。貴重なトークを聞き逃すまいと、みんな興味津々です。インタビューした時点で恒二氏にとっては79年前の出来事なのですが、語り始めると、表情も少年時代に戻っていくよう。まるで昨日のことのように細部まで覚えていらっしゃることに驚きました。

日本人の子供なんかいたはずがない?

軍事機密でもあったはずのツェッペリン伯号に、民間人の子供が乗るなどということは、本来あり得ないことである。実際、当時の恒二少年は、このことがバレると憲兵に連行されると恐れていたそうだ。
しかし、この事実を証明する写真が残されているという。


着いた翌日ですからね。一般の乗組員は何かの作業をやっていましたね。

後の話ですが、ツェッペリン伯号来日60周年の時に、イーザさん(ツェッペリン伯のお孫さんのイーザ・フォン・ブランデンシュタイン婦人)に私が乗った話をしたら、日本人の子供なんかいたはずがないと言われたんです。
でも、(調べてみると)日本人の坊主頭で半ズボンを穿いた男、幼稚園の子供みたいな子がいたっていう証言が出てきて、そういう写真も見たと。その写真を複写して届けてやろうと言われました。でも、その写真はドコにいったのか分からなくなってしまったみたい。

とにかく、あの2日目には、日本人は誰も上がらない事も確かだったらしいのですが、副官さんは特別な免許であるということで、乗せてもらったんです。


証言を聞くまでもなく、その日、確かに少年はツェッペリン伯号の中にいたのだ。何より、あまりにも鮮明な堀越恒二さんの記憶が、奇跡の出会いを物語ってくれる。
また、エッケナー博士をはじめとする飛行船クルーは「霞月楼」に招かれている。この際、日本式に靴を脱ぐように言われた博士は「ドイツの風習ではない」として、どうしても靴を脱ごうとしなかったとのこと。後にわかったところによれば、それは口実で、実は博士の右の靴下には大きな穴が開いていたからだった、といったエピソードも残されている。
なお、ツェッペリン伯号クルーだけでなく、世界一周飛行の途中のリンドバーグ夫妻など、歴史的人物も霞月楼に訪れている。幼い恒二さんはリンドバーグの奥様に抱かれたそうで、そのことを記者に聞かれて恒二少年は「いい匂いだった」と答えたそうだ。

巨大飛行船との出会いを、ジェスチャーも交えて熱く語る恒二氏。ツェッペリンだけでなく、リンドバーグ夫妻との交流など、歴史的人物とのエピソードが次々と語られました。なお、ツェッペリン伯号来訪時、美容室では「ツェッペリン・パーマ」なる髪型が登場し、町ではツェッペリンたい焼きが売られていたとか。当時を知る生き証人の言葉には、本物の臨場感があります。

馴染みの副官さんと一緒に、飛行船の中を見て回った

堀越恒二さんは、霞月楼に展示されている手製の「ツェッペリン伯号・内部模型」を前に、当時の様子を詳しく語ってくれた。まるで、昨日の出来事のように。インタビューに立ち会った人々は、熱心な言葉を聞き逃すまいと耳を立てる。静かな料亭に、80年前の光景が浮かび上がっていく。


タラップを上がって……ドアは開いてましたね。ドアのそばの部屋を覗くのは後にして、隣の部屋のドアが開いていたんで、入ろうとしたら「ここは入っちゃマズイ」って言われて。ハンドルとか操縦関係の資材が全部あったから、非常に興味があって、覗きたいって言ったんだけど、ダメだって。そばに調理室があったんだけど、これは板場とおんなじだなぁと笑いながら見て、まん中の通路を通ってキャビンのほうへ行ったんです。そのまま通り抜けて、先に客室などを見ました。トイレとか、洗面所とか、シャワーバスとかも見せてもらったけれど、私あんまり興味示さなかったな。
それからキャビンに戻って、ようやく腰をおろしたんだ。立派な長イスなんかもありましたよ。印象に残っているのは、ゴブランおりのイス。私は真ん中に刺繍がある所につかまって足をかがんでいましたね。
そしたら、ドイツのカメラマン(らしき人)が、カメラを持って入ってきて、写真を撮るって言い出してね。柱があったんだけど、それが邪魔だからこっちへ来いって言われたけど、私は「写真は嫌だ嫌だ」って、柱につかまって影に隠れるような格好をしてた。そこを写真に撮られたわけです。

霞月楼に展示されているグラーフ・ツェッペリン号のゴンドラ内部模型。土浦ツェッペリン倶楽部会長手作りの品で、旅客飛行船の内部がよく分かる貴重な資料です。模型左側が操縦室。無線室や厨房をはさんで乗船口があり、豪華なキャビン、個室の客室が続いています。当時の恒二少年は、この中を歩き回ったわけです。

(格納庫の写真を見ながら)
質問者: 掘越会長、格納庫ですけど、どこ辺りから入ったかはわかりますか?
恒二氏: …ここいらだな。
質問者: あ、ここらへん。この辺から入ったんですか?
恒二氏: こう入って、ぐるっと回ってここ。私はここにいて、副官が待っていてくれたのがここだよ。

私は副官さんと一緒に、飛行船の中を歩いて見て回ったのですが、途中で副官さんが何か用事があって慌てちゃって。私はキャビンの所で10〜15分くらい待っていたんですが、一人でいたら寂しくなっちゃって。帰れなかったらどうしよう?、このまま連れていかれちゃったら大変な事になるって、一人で騒いでいました。
そのうちに副官さんが戻ってきて、帰りに板前が「良かったなぁ、良いのを見てきたなぁ」なんて言って。


当時の子供にとっては、飛行船はおろか、普通の客船ですら相当に珍しいものだったはずだ。格納庫内の薄暗い船内を、目を輝かせて、キャビン、客室と渡り歩く少年の姿が、ありありと浮かんでくる。
そして、写真を嫌がって、柱にしがみつく少年。和服姿の坊主と世界最新の飛行船の組み合わせは、カメラマンにとっても魅力的な被写体だったに違いない。その貴重な写真は、ツェッペリン伯のお孫さんである「イーザ・フォン・ブランデンシュタイン婦人」が所有しているという。

インタビューの合間に、霞月楼内に常設されているツェッペリンコーナーで展示物を説明してくださった恒二氏。霞月楼には、貴重な写真や史料がたくさん展示されているのです。私たちにとっても珍しく貴重な展示物ですが、恒二氏にとっては思い出の1ページなのでしょう。懐かしそうに目を細めて、当時の写真を眺めておられる姿が印象的でした。

飛行船の胴体が西日に真っ赤に染まっていたんだ

恒二さんは、当時、小学校で、土浦上空を飛ぶツェッペリン伯号の絵を描いたそうだ。全長236.6メートル、最大直径30.5メートルにも及ぶ巨大飛行船に、当時の人々はとても驚いたことだろう。
恒二少年の描いた絵も、実際に目の当たりにした人でしか描けない、写実的なものだったようだ。


ツェッペリン伯号が霞ヶ浦に着いたときに、私は、この霞月楼の4階から向こう見てたんです。
飛行船が轟音を響かせて前を通っていくと、バァー、バァーってあちこちから、こんなに鳥がいたのかと思う程、飛び立ってね。

私が小学校の2年の時にね、小学校でツェッペリンの絵を描いたんです。飛行船の真ん中に、赤いので丸を真っ赤に描いたんですよね。
それを見た先生に「つねちゃん、この飛行船は日本の飛行船じゃなく、ドイツの飛行船だから日の丸はないのよ」って言われて。
でも、私は「先生違う。飛行船はここいらを通ってって、ニシがこっちだ。上で回って通った時に、西日が真っ直ぐにぶつかって真っ赤に見えた。だから、日の丸じゃなく胴体に日の丸のような赤で描いたんです」って。
飛行船と格納庫の角度も調べました。飛行船の胴体が真っ赤に染まってて……真っ赤なのが飛んできたんですよ。


夕日に染まる巨大飛行船。音に驚いて飛び立つ鳥たち。恒二さんの朴訥な一言一言が、リアルな想像をかき立てる。が、どれほど鮮明に思い浮かべても、私たちは、本当の光景を見たわけではない。いつか、私たちも恒二少年と同じ光景を目にすることができるだろうか。

インタビューは5時間に及び、夜には懇親会も開かれました。会場となった料亭・霞月楼は、海軍航空隊があった茨城県霞ヶ浦のそばのため、当時の著名人の多くが利用し、子供時代の恒二氏は、そうした人々に可愛がられたようです。ご高齢にもかかわらず、長時間にわたってお話しくださった堀越恒二氏の情熱に心から敬服します。

この収録内容は2008年に『DVD/ツェッペリン伯号回想録〜飛行船に乗った堀越恒二少年〜』としてまとめられています。
DVDはツェッペリン倶楽部関係者、土浦市内の図書館映像ライブラリなどに寄贈され、土浦ツェッペリン伯号展示館にも所蔵されています。機会がありましたら、堀越恒二氏の熱意と優しさあふれる証言を、ぜひ実際の映像でご覧になってみてください。